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2012年10月17日水曜日

昭和天皇


天皇家は生物学がお得意のようです・・・


昭和天皇(しょうわてんのう、1901年(明治34年)4月29日 - 1989年(昭和64年)1月7日)は、日本の第124代[1]天皇(在位:1926年(昭和元年)12月25日 - 1989年(昭和64年)1月7日)である。
諱は裕仁(ひろひと)。幼少時の称号は迪宮(みちのみや)、お印は若竹(わかたけ)。

人物像
生活・趣味

1935年、東京駅に満州国皇帝溥儀の到着を待つ間、カメラに向けて破顔する昭和天皇。この写真は当時新聞掲載を差し止められた[69]。

生物学研究所の顕微鏡を古くなっても買い替えることはなく、鉛筆は短くなるまで使い、ノートは余白をほとんど残さず、洋服の新調にも消極的であった[70]。

不自然なものを好まず、盆栽を好まなかった[71]。

晩年の昭和天皇は、芋類・麺類(蕎麦)・肉料理・鰻・天ぷら・乳製品・チョコレートの順に好物であったとされる[72]。

1926年(大正15年)5月、摂政宮として岡山・広島・山口3県へ行啓の際、お召艦となった戦艦「長門」で将兵の巡検後タバコ盆が出された甲板で「僕は煙草はのまないからタバコ盆は煙草呑みにやろう」と、(「朕」ではなく)はっきり「僕」と言うのを当時主計中尉で長門勤務だった出本鹿之助が聞いている[73]。

見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられてもしばらくそこから離れなかったこともある。訪欧時にもフランスで鯉の餌やりに熱中し、時間になってもその場を離れなかったエピソードがある。

スポーツに関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身に付くものはなかった」と発言した。自身は乗馬が好き(軍人として必要とされたという側面もある)で、障害飛越などの馬術を習得しており、戦前は良く行っていた。戦後でも記念写真撮影に際して騎乗することがあった。また水泳(古式泳法)も得意で、水球を楽しむ写真も残っている。

デッキ・ビリヤードを好み、戦艦「比叡」を御召艦にしていた際、侍従を相手に興じている[74]。乗艦時は無表情だった天皇が、この時は屈託もなく笑って楽しんでいたという[75]。

映画が大の好みであった。ベルリン五輪記録映画『民族の祭典』やヴィリ・フォルスト監督の『未完成交響楽』(オーストリア映画)、ディアナ・ダービン主演の『オーケストラの少女』なども鑑賞したと、戦前の海軍侍従武官であった山澄貞次郎海軍少将が回想記に綴っている[76]。

1975年(昭和50年)10月31日の記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問に対し、微笑を浮かべ身を乗り出して、「テレビは色々見ますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今ここでどういう番組が好きかという事はお答えできません」と微笑みつつ冗談交じりに返した。記者達はこの思わぬ天皇の気遣いに大爆笑した[4]。現在では、側近の日記が明らかになることによってどのような番組を見ていたかが明らかになっている[77]。

テレビ番組ではNHK朝の連続テレビ小説と『水戸黄門』が好きだったとされる[71]。『おしん』については「ああいう具合に国民が苦しんでいたとは、知らなかった」と感想を述べたという[78]。テレビ番組に関してはこの他『自然のアルバム』などもよく視聴した。意外なところでは『プレイガール』も視聴したことがあるという[79]。『刑事コロンボ』も好きであった[80]。

テレビの被写体になることに関しては、『皇室アルバム』のプロデューサーを務めた古山光一は、「秋田国体に行かれた時に、小雨が降って侍従が傘を差し出したら、強風で傘が飛び、陛下の帽子も飛ばされた映像もあるんです。戦前なら即NGでしょうが、陛下はそれをご覧になって『おもしろい映像だったね』とおっしゃったそうです。そういうお声を聞くと侍従も困るといえません。昭和天皇の人間性で、この番組は、救われてきた気がします」と振り返っており、天皇皇族の動静がテレビで報道されることに一定の理解を示していた[81]。

好角家として知られる昭和天皇は、当時の春日野理事長が「蔵間は大関になります」と語った言葉をのちのちまで覚えていたらしく、ある時「蔵間、大関にならないね」とこぼした。春日野は「私は陛下に嘘を申し上げました」と言って謝罪し、その後蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという逸話がある。

生物・自然

海の生物が好きであり、臣下との会話で海の生物の話題が出ると喜んだという。趣味として釣りも楽しんだ。沼津において、常陸宮正仁親王を伴って磯釣りに興じたことがある。釣った魚は研究のため、全て食べる主義であった。終戦直後には「ナマコが食べられるのだから、ウミウシも食べられるはずだ」と、葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食した(後に「あまり美味しい物ではなかった」と述べた)という。採集品については食べることはなかったとも言われ、船頭が献上した大ダイをそのまま標本にしてしまい、船頭が惜しがったというエピソードも伝わる。

南方熊楠のことは後々まで忘れることはなく、その名を御製に詠んでいる。南方および弟子からは都合四回にわたって粘菌の標本の献呈を受けている。

「テツギョ」というキンギョとフナの雑種とされる魚を飼育していた。後にDNA鑑定でキンブナとリュウキンの雑種と判明。

海洋生物学を研究する関係からか、英語よりフランス語を得意としたと伝わる。訪欧時フランスのバルビゾンのレストラン「バ・ブレオー」でエスカルゴを食べる際、その個数について「サンク(仏語で5つ)」と「3個」をかけて近習をからかったことがある[62][82]。

武蔵野の自然を愛し、ゴルフ場に整備されていた吹上御苑使用を1937年(昭和12年)に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。また「雑草という植物はない」と言ったとされることでも有名。

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