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2011年3月26日土曜日

ARPANET@リスク分散

@ Internetの始まり、ARPANETは? 


コンピュータが敵のミサイルに攻撃されても、大丈夫なように、リスク分散を図るのが大きな目的だった。 


ICBM(大陸間弾道核ミサイル)がARPARNETを産んだ 


すごいね? E=mc2 (^_-)-☆


基本的に国防省の研究プロジェクトの受託先だけを接続するネットワークであったアーパネットは1980年代に再編され、セキュリティー上の理由から一部は国防関連の専用ネットワークとなり、残りはNSFネットなどに受け継がれ、後のインターネットになった。



---Wiki

ARPANETアーパネットAdvanced Research Projects Agency Network)は、1969年アメリカ国防総省国防高等研究計画局(Defense Advanced Research Project Agency:略称DARPA)の行動科学研究部門IPTO(Information Processing Techniques Office:情報処理技術室)による指揮の下に構築された、研究および調査を目的として設けられたコンピュータネットワークである。今日のインターネットの原型として知られている。



概念の提唱 [編集]

ARPANETに直接影響を及ぼしたコンピュータネットワークの概念の提唱を行ったのはJ・C・R・リックライダーによるタイムシェアリングシステムによるネットワークである。リックライダーの1960年の論文、"Man-Computer Symbiosis"(「人間とコンピュータの共生」)[1]の中で早くもリソースを共有するためのタイムシェアリングシステムのネットワークの可能性について言及している箇所が見られる。又リックライダーがARPAのIPTO(Information Processing Techniques Office)部長に就任した後の1963年にIPTOの助成機関宛に送ったメモランダム"Memorandum For Members and Affiliates of the Intergalactic Computer Network"(いわゆる「銀河間コンピュータネットワークメモランダム」)[2]の中ではIPTOの将来的な目標として相互の研究内容の情報を共有するためにコンピュータネットワークを構築することの提案を行っている。
リックライダーのこの構想はアイバン・サザランドロバート・テイラーといった彼がIPTOにリクルートした彼の後継者達によって受け継がれる事になった。

ネットワークの実験 [編集]

1964年にリックライダーがIPTOの部長を退いた後、彼の役職を継いだサザランドはリックライダーが提唱したコンピュータネットワークの実験を行ってみる事にした。1965年にUCLAの2つのコンピュータをネットワークしてみる事になったが、この実験はコミュニケーションの方法に問題があったために失敗した。

ARPANETの開発 [編集]

1966年にサザランドの次にIPTO部長に就任したテイラーは更に一歩進めて本格的なコンピューターネットワークを構築しようと試み、ARPA本体から予算を取り付けた。ただしテイラーはリックライダーと同じ音響心理学者でコンピュータ工学のエンジニアではなかった。このためネットワークを実際に構築できる技術者を必要としていた。こうしてマサチューセッツ工科大学リンカーン研究所から半ば脅される形でIPTOにリクルートされてきたのがローレンス・ロバーツである。ロバーツは1967年にこれまでリックライダーやサザランド、タイラーが概念として述べてきた事を「指示書」のような形でまとめた。これが"Multiple Computer Network and Intercomputer Communication"[3]である。この「指示書」の中ではARPANETの基本的な「仕様」が以下のように示されている。
  1. 負荷共有
  2. メッセージサービス
  3. 情報の共有
  4. プログラム共有
  5. 遠隔ログイン

コミュニケーションの方式 [編集]

ロバーツによってARPANETの基本的な仕様は固まったものの、実際にネットワークを構築するにあたって大きな問題が残っていた。即ち1965年の実験でも失敗したコミュニケーション方式の選択である。
結論から述べるとロバーツが直面した問題はユダヤ系アメリカ人のMIT教授レオナルド・クラインロックが考案するパケット交換方式を採用する事によって解決したが、これがどのような意味を持つのかについては議論が分かれるところである。即ちこの方式が1960年代前半にアメリカ空軍シンクタンクであるランド研究所ポール・バランによって提唱された核攻撃下でも生き残れるコミュニケーション方式であるという点を持ち上げて冷戦構造全体の中で技術としての「インターネット」を議論するべきなのか、それともロバーツの言うとおりパケット通信はバランの研究とは全く関係の無いイギリス国立物理学研究所ドナルド・デービスの研究成果を反映したもので「インターネット」の誕生は新しいコミュニケーションツールとしての側面から評価してよいという議論までかなりの幅が見られる。少なくとも当時のIPTO責任者であったテイラーは、1994年7月にアメリカ・タイム誌で、「インターネットは核攻撃下でのコミュニケーションの生き残りを想定して開発された」[4]という記事が掲載されたときに事実とは異なる旨、正式な抗議をタイム誌に対して行っている。
こうしてデータは流れるようになったが、タイムシェアリングシステム本体にコミュニケーションの管理を行わせる事に対してはコンピュータの管理者から否定的な意見が出されていた。このためロバーツはリンカーン研究所のウェスリー・クラークの助言を受け入れタイムシェアリングシステムにコミュニケーションの管理を専門に行わせる小さいコンピュータを接続させることにした。この結果開発されたのが、現在のルーターの前身ともいえるInterface Message Processor(IMP)である。

ARPANETの始動 [編集]

発足当時のノードUCLAUCサンタバーバラスタンフォード研究所 (SRI)、ユタ大学、の4箇所であった。発足当初のメンバーには以後のネットワークの歴史や文化に大きな影響を与えることになるジョン・ポステルヴィント・サーフが含まれていた。
また、このネットワークは1980年代初頭に、資金提供を行っていた国防省側の方針でTCP/IPのみによる通信に切り替えることになり、今日のインターネットにおけるTCP/IPの使用にとって決定的な条件のひとつを作ったと考えられている。
基本的に国防省の研究プロジェクトの受託先だけを接続するネットワークであったアーパネットは1980年代に再編され、セキュリティー上の理由から一部は国防関連の専用ネットワークとなり、残りはNSFネットなどに受け継がれ、後のインターネットになった。
1981年、日本で初めてのARPANETとの接続は東北大学ALOHAnetに参加し、これを経由して接続されたのが最初であった[5]。これは米国本土までの距離に比較して、地理的にも近いハワイまでの専用線の料金が、より安価に済んだことも理由である。


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