夕佳ちゃんという人とチャットした。
政治の話は好きじゃないようだ・・・
今、まさに、田沼を見るべきかな?
日本の改革は、どうなるの?
田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。
田沼時代[編集]
詳細は「田沼時代」を参照
この頃より老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行した。
また、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。印旛沼運河工事の失敗や明和の大火・浅間山の大噴火などの災害の勃発、疲弊した農村部に天明の飢饉と呼ばれる食糧難や疫病が生じた。意次は対策を打ち出すが、失敗し逆に事態を悪化させてしまった。その中にあって財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていった。
このような世相の中、それらが元による都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていく。
外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方においてロシア帝国との貿易も行おうとしていたほか、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4年(1784年)に息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺された[3]ことを契機とし、権勢が衰え始める。
天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚する。この動きには、反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。
その後、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受ける。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。長男の意知は既に死去していて、他の三人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰は無く家禄も維持し続けたことに比べると最も苛烈な末路となった[4]。
天明8年(1788年)6月24日、江戸で死去。享年70。
人物[編集]
田沼の失脚後から既に悪評が出ており、これは明治以降も引き継がれた。しかし、川路聖謨は「よほどの豪傑」「正直の豪傑」であったと評している[5]。 近代には、大正6年(1917年)に辻善之助著『田沼時代』が発表されると、田沼意次=「賄賂政治家」とされ、田沼悪人説が流通していた。ただし、辻は政策の進歩性などについて大きく評価しており[6]、開明的政治家としての再評価も高まっている[7]。
また、大石慎三郎らは「賄賂政治家」という悪評は反対派によって政治的に作られていったとしている[8]。これらの説によると、田沼悪人説の根拠となる史料も田沼失脚後に政敵たちにより口述されたもので、辻の著作においては信憑性が検証されていないとしている。また、仙台藩主伊達重村からの賄賂を田沼が拒絶したという史料[9]の存在、逆に田沼を非難していた松平定信さえも田沼にいやいや金品を贈ったと書き残していることなどをその論拠としている。
また贈収賄は江戸時代通じての問題で、それ自体も近代以後に比べればかえって少なかったという説も唱えられている。なお、田沼の没後松平定信によって私財のほとんどを没収されたが、そのときには「塵一つでない」といわれるほど財産がなかったとの逸話もある。
田沼失脚後に老中となった松平定信ら譜代・親藩による寛政の改革が始まり、意次の政策は否定される。11代将軍家斉の大御所時代に、水野忠友の子水野忠成と、田沼意次の四男田沼意正らによって重商主義に基づく政策は一時見直されるが、大御所家斉の浪費のためほとんど効果を上げることはできなかった。松平定信は庶民の着物の柄まで制限するほどの質素倹約な方針だったので、良くも悪くも世俗的な田沼意次の政治を懐かしむ声も見られた。 この時期流行った落首として次の二つがある。定信の就任当初は前者の歌が流行ったが、やがて改革が厳しすぎるとわかると後者の歌に取って代わられた。
田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水
白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき
現在の田沼論はどちらかといえば「老中としての田沼」を論ずるのがメインとなっている感があるが、相良藩主としての田沼に関しては街道や港の拡張、防火対策(相良で起こった大火の後、藁葺きの家はことごとく瓦葺にするよう令を発している)、殖産興業などきわめて正統的で当を得た施政を行っている。
政治の話は好きじゃないようだ・・・
今、まさに、田沼を見るべきかな?
日本の改革は、どうなるの?
田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。
田沼時代[編集]
詳細は「田沼時代」を参照
この頃より老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行した。
また、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。印旛沼運河工事の失敗や明和の大火・浅間山の大噴火などの災害の勃発、疲弊した農村部に天明の飢饉と呼ばれる食糧難や疫病が生じた。意次は対策を打ち出すが、失敗し逆に事態を悪化させてしまった。その中にあって財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていった。
このような世相の中、それらが元による都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていく。
外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方においてロシア帝国との貿易も行おうとしていたほか、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4年(1784年)に息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺された[3]ことを契機とし、権勢が衰え始める。
天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚する。この動きには、反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。
その後、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受ける。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。長男の意知は既に死去していて、他の三人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰は無く家禄も維持し続けたことに比べると最も苛烈な末路となった[4]。
天明8年(1788年)6月24日、江戸で死去。享年70。
人物[編集]
田沼の失脚後から既に悪評が出ており、これは明治以降も引き継がれた。しかし、川路聖謨は「よほどの豪傑」「正直の豪傑」であったと評している[5]。 近代には、大正6年(1917年)に辻善之助著『田沼時代』が発表されると、田沼意次=「賄賂政治家」とされ、田沼悪人説が流通していた。ただし、辻は政策の進歩性などについて大きく評価しており[6]、開明的政治家としての再評価も高まっている[7]。
また、大石慎三郎らは「賄賂政治家」という悪評は反対派によって政治的に作られていったとしている[8]。これらの説によると、田沼悪人説の根拠となる史料も田沼失脚後に政敵たちにより口述されたもので、辻の著作においては信憑性が検証されていないとしている。また、仙台藩主伊達重村からの賄賂を田沼が拒絶したという史料[9]の存在、逆に田沼を非難していた松平定信さえも田沼にいやいや金品を贈ったと書き残していることなどをその論拠としている。
また贈収賄は江戸時代通じての問題で、それ自体も近代以後に比べればかえって少なかったという説も唱えられている。なお、田沼の没後松平定信によって私財のほとんどを没収されたが、そのときには「塵一つでない」といわれるほど財産がなかったとの逸話もある。
田沼失脚後に老中となった松平定信ら譜代・親藩による寛政の改革が始まり、意次の政策は否定される。11代将軍家斉の大御所時代に、水野忠友の子水野忠成と、田沼意次の四男田沼意正らによって重商主義に基づく政策は一時見直されるが、大御所家斉の浪費のためほとんど効果を上げることはできなかった。松平定信は庶民の着物の柄まで制限するほどの質素倹約な方針だったので、良くも悪くも世俗的な田沼意次の政治を懐かしむ声も見られた。 この時期流行った落首として次の二つがある。定信の就任当初は前者の歌が流行ったが、やがて改革が厳しすぎるとわかると後者の歌に取って代わられた。
田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水
白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき
現在の田沼論はどちらかといえば「老中としての田沼」を論ずるのがメインとなっている感があるが、相良藩主としての田沼に関しては街道や港の拡張、防火対策(相良で起こった大火の後、藁葺きの家はことごとく瓦葺にするよう令を発している)、殖産興業などきわめて正統的で当を得た施政を行っている。
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