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2011年2月12日土曜日

天明の大飢饉は?

どのようにして、発生したか?

これを研究する必要があるのでは?

今や、天気は?

エコシステム=エコロジー+エコノミー

から成る・・・


http://www.pref.akita.jp/fpd/taiko.edo/edo-07.htm



天明3年(1783)は、秋田藩はもとより、東北諸藩を大飢饉が襲った。農書を書き残した秋田郡七日市村の肝いり・長崎七左衛門は、この惨上状を次のように記している。


「幼児は捨てられ、父母を探し迷う姿は、まるで地獄である。路上での追いはぎ・強盗の様は修羅道と言える。かわいそうにと幼児の手に食物を握らせると、その親が奪い取って自分で食べてしまう。全く親子兄弟の情もなく、畜生道という有り様だ。

秋田県立博物館にある「不納別帳によれば、天明4年(1784)の下仙道村(現、羽後町)では、前年の凶作のため、年貢を納めることができない農家が21戸もあり、その数は全村の4分の1を占めた。

天保年間(1830-44)に入っても、3年、4年、5年、6年、7年と5年連続の凶作。中でも天保4年が大凶作で、巳年であったことから、秋田では「巳年のけかち」と称されている。

この年の天候は特に異常であった。
田植え後に冷気が続き、いつもなら草取り作業は暑さのためつらい作業となるのだが、何と寒さのため綿入れを着て作業を行い、作業の合間には、ワラを燃やして暖をとらないと手がかじかんで作業ができなかったという。
南部でも冷気が強く、稲の開花期には暴風が続き、例年より積雪期も早く訪れるなど、異常気象であった。当時の農民は、その約半数が5月以降になると自家飯米もなくなり、この秋の収穫も良くて半作、被害の大きいものは皆無であった。

右の絵は、天保飢饉の様子を記した「天保凶飢見聞記」であるが、「
倒れた馬にかぶりついて生肉を食い、行き倒れとなった死体や狼や鳥が食いちぎる。」この記録は、現在の北秋田郡鷹巣町地方の見聞であり、天候、豊凶、物価、世相などを記している。

翌5年になると、飢えた農民は食料を求めて浮浪し、城下町などへ集まった。久保田では、4ヶ所に救い小屋を建てて救助に当たった。春から6月にかけて、飢えて衰えた身体に疫病が襲い、多くの死者が出た。「秋田飢饉誌」は、城下の様子を次のように記している。

「通町橋から6丁目橋の下まで、橋の下は集まった浮浪者で一杯となった。死人をムシロに包んで背負いながら歩く者、橋の下で子を産む母親、親子兄弟に死に別れ、悲しんでいる者、途中で子供を捨ててたどり着いた親など様々であった。通町橋など午前10時ころになると、200人以上もの浮浪者が橋の両側に立ち並んで物乞いをし、通行もままならないほどであり、夜などは物騒で外出できない状態であった」

天保4年、秋田藩の人口はおよそ40万人、うち死者が10万人出たとの説もある。天明、天保の大飢饉によって百姓一揆は急増していった。


http://npo.house110.com/blog/archives/2007/02/post_462.html


天明の大飢饉

6733.jpg
若干の取材空き時間があったので、八戸の博物館を先日、訪れた。
そこで、目を奪われてしまったのが
「天明の大飢饉」の惨状を伝える絵や展示。
東北北部を悩ませる寒冷な気候のもたらす惨禍をリアルに伝える、すぐれたドキュメントでした。
写真は展示中の、江戸期の出版物「卯辰飢饉物語」からの挿絵です。
以下、展示からの紹介文。(一部要約しました)
「餓死万霊等供養塔裏側に刻まれた碑文の内容」
1778年の頃から、ここ数年の間、耕作は良くなかった。1783年、天明3年の大飢饉のようすは
4月11日の朝に雷が強く鳴って、ヤマセ(北東の寒冷な季節風)が吹き、
大雨が降ってから、8月晦日の暮れまで雨が降り、9月1日、しばらくぶりで晴れた。
夏の間、ずっと「綿入れ」を重ねて着なければならないほど寒かった。
このため、田や畑の作物が実らず、青立ちのままだった。
人々は毎日、山へ登り、わらびの根を掘り、海草や山草はもちろん、
イネなどのさまざまな茎を粉にして食べたりした。
翌年になると、領内すべてで収穫がなく、はやり病が流行し、多くの人が餓死し、
死人が山のようであった。
城下や村々では、毎日のように火事があり、押し込み強盗などが多くなった。
しかし、新井田村(この碑の所在地)では出火はなかった。
領内の総人数65000人あまりのうち、30000人あまりが死んだ。
家は272軒のうち、136軒がつぶれた。
これまでにないことである。これからはコメや穀物などを貯えておきなさい。
という記述。
それにつけられた挿絵が写真のものなのだけれど、
餓死した馬を食らっていたり、倒れた人をむさぼっている野犬のようすなど
目を覆うような悲惨な光景が描き出されている。
言葉に出来ないようなようすが想像できるシーンも描かれている。
人口の半分が餓死する、というまことに過酷そのもの。
つい200年ちょっと前まで、こういうことが現実であったのですね。
こういう気候不順にともなう冷害が、北東北地域ではひんぱんだった。
しかし、展示で初めて知りましたが、こうした飢饉の遠因には
江戸中期以降、勃興した関東地域の野田の醤油産業に対して
それまでこの地方の農民の主食であった冷害に強いヒエ畑を変えて、
原料となる大豆の生産を農民たちに強制した、南部藩の経済政策があったそうです。
というような記述を読めば、
まさに生きた経済と、その社会システムがまざまざと実感できてきます・・・。
願わくば、先人たちの経験と知恵をわれわれはよく知って、
よりよい社会を構築していかなければならないと、思いますね。 
まずは、惨禍に死んだ先人に、合掌。


http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_e.html


江戸の大飢饉~この世に現出された凄惨な飢餓地獄を見る~
 現代は飽食の時代と言われている。ファミリーレストランやファーストフード店などに行くと、より取り見取りの食べ物がところ狭しと並び、注文しさえすれば、どんなものでもすぐに食べることが出来る便利な時代である。
 しかし、客の中には、半分も食べないで席を立つ者もいるし、中には、注文しながら、ほとんど手もつけずに食べ残して去る者さえいる。彼らの頭の中では、食べ物のありがたさに感謝する気持ちなど微塵もないように思える。
 しかし、ほんの百年かそこら前には、一片の食べ物もなかったばかりに多くの人間が死んでいかねばならない悲しくて長い過去があったのである。江戸時代の日本は、そうした犠牲者を数多く出した経験を何度もしているのである。大飢饉は江戸時代だけでも6回もあり、そのうち亨保、天明、天保と呼ばれるものは江戸の三大飢饉とまで呼ばれ、全国的な規模で各地に甚大な被害を持たらしたとされている。
 とりわけ、東北地方の被害は最も深刻で、冷害が続くと、間違いなく凶作となりたちまち飢饉になった。今でこそ米の品種改良などで一大収穫地となっているが、東北地方は、その頃は決定的に食えない地域であったのだ。
大飢饉の状況下では、人間の心理というものはいかに変化するのであろうか? ある記録では、飢えゆえに餓鬼に成り果てた身の毛のよだつ地獄の世界がこの地上に現出したと述べているものもある。
 寛永の大飢饉(1642~50)では、会津藩(福島県)の被害は甚大で、餓死寸前に追い込まれた百姓は、田畑や家を捨て妻子を連れて隣国に逃散したと記録されている。その逃げ散りの様は大水の流れにも等しいものであった。その際、7才以下の幼児は、足手まといになるので、川沼に投げ込まれて溺死させられたという。その他、身売りもさかんに行われ、当時の人質証文と言われる書類が数多く残されている。しかし、その内容は農民にとってはむごいものであった。
 ある身売りしたケースは、14才の女の子を担保代わりに金子3分を受け取るというものであったが、利息は大変な高利であり、貧しい百姓にとっては不可能な数字であった。つまり、払えない場合は、我が子は永久に買い取られることになっていた。買い取られた女の子は、女中として永久に奉公せねばならず、後には遊女として売られる悲惨な運命が待ち構えていたのだ。もし女の子が逃げたりすると、返済額は2倍になることもあり、死んだ場合は債務者が責任をとって代わりの女の子を進上せねばならなかった。
 ある村では、4年間に60人が、127両で売られたこともあった。中には親子4人が8両足らずで身売りされたケースも残されている。これらの身売りは、凶作によって年貢が納められず、追い詰められた農民が切羽詰まって売買したものであった。このように、この時代は人身売買が飢餓から逃れるための手段として公然とまかり通っていた時代でもあったのだ。
この頃の京都の様子を伝えた「福斉物語」によると、朝夕の煙は絶え、人々はさまよう餓鬼のようで、路頭には野垂れ死にした屍骸の山がうず高く積み重なり、軒下には、赤子が捨てられ、幼児は路上に放たれてその多くは飢え死にして、犬にむさぼり食われる運命であったと記されている。
 元禄の大飢饉(1695~96)は、津軽地方(青森県)を中心に大きな打撃を与えた。この飢饉は、典型的な冷害による飢饉で、その上、時の将軍徳川綱吉の生類哀れみの愚令がそれに追い討ちをかけてさらに悲惨の上塗りをしたことでも知られている。飢饉の様子を記録した「耳目心痛記」(じもくしんつうき)は、その時の凄惨な様子を詳細に綴っている。
 ・・・年を越すと惨状は一段とひどくなった。路上では、飢えのために野たれ死ぬ人間が後を絶たなかった。村では、死に絶えて空き家になっていく家が5軒6軒と日に日に増えていく。
 肉親が死んでも、人々に埋葬する体力もなく、屍骸は草むらなどにそのまま放置されたままだった。
 ある貧農の親子4人は、木の葉、草の根を食べていたが、10月になると積雪のためそれすらも出来なくなり、一週間水だけの生活になった。
 苦しみ抜いた両親は、二人の子供を川に捨て、自分たちは、非人小屋に行くしかないという結論に達した。決断した両親は、一人づつ飢えで衰弱した我が子を抱きかかえていき、氷のような川に沈めて殺した。しかし、ついに母親が耐えきれなくなり自分も引き返して入水してしまった。父親もその後を追って死んだ。
 また、ある農村では、10才ほどの女の子を川に突き落とす母親がいた。子供が泣きながら岸に這い上がってくると、今度はもっと深い所に投げ込んだ。それでも上がってこようとする子供に、その母親は大きな石で打ち殺そうとした。これを目撃した農民が、駆け寄ってきて子供を抱き上げ、母親に向かって、たとえ餓死するとも、子と一緒に死のうというのが親の心情ではないのかといさめたところ、その母親は、親兄弟すべて死んでしまった。我も今日明日中には死ぬであろう。幼子を残して憂き目に合わせるより、先に殺して回向してやる方がまだ幸せだと言って涙を流して語ったという。
 こうして、多くの人々が飢えで苦しむ中、生類憐れみの令は、事態をさらに凄惨なものに引き上げることのみ役立った。捨て犬禁止令が出され、あらゆる畜類の殺生と肉食の禁止、さらには犬を飢えさせてはならないという法令が全国に出されたのである。もし、飢饉のために猪、シカでも殺して食べようものなら遠島か死罪になった。そのため、禽獣は人間を恐れなくなり、飢えてさまよう人々に鳥が猛然と襲いかかり、倒れでもしようものなら、野犬が走って来て肉を引き裂かれ食い殺されてしまうのである。万事・万物が逆で道も法もないと嘆いた記録が残されているほどである。
 この時、幕府のしたことと言えば、8万匹の野犬を収容した中野犬小屋を建設し、その建設のために膨大な金銭と食料を浪費しただけであった。食べる物が一切なく、飢餓より逃れたいために身売りや逃散、盗み、人殺しが横行し、果ては飢餓ゆえの人食いまで行われていたのに反して、ここでは、犬一匹につき一日に白米3合、味噌50匁(約187グラム)干しイワシ一合が与えられていたのである。あまりの落差に驚愕など通り越してはかり知れぬ狂気さえ感じてしまうほどだ。
 亨保の飢饉(1732~)は、近世に入って起きた最大の大飢饉でとりわけ、西日本を中心にで猛威を震った。
  この飢饉は、雲霞(うんか)の異常増殖による虫害と言われ、水田の間を飛び回る雲霞は、水の色が醤油のように見えるほど大量発生し、夜中になると稲穂の先に群がり稲を食い尽くした。
 この害虫の繁殖力は、まことに凄まじく、最初、稲の根元に卵らしきものが産みつけられるや否や、一両日中には、水田一杯に増殖し、そこら中真っ黒の雲状になって飛び回るのであった。
 村々では、虫退散の祈祷や虫送りをしたが、全く効き目がなく雲霞のために稲はすべて枯れていったのである。
空中を飛び回るイナゴの大群(イメージ)
 亨保の飢饉では、道路上に行き倒れて死んだ者が数多くいたが、その中に、立派な身なりのまま餓死していた男がいた。男の首には100両もの大金が入った袋が懸けられていたという。つまり、この男は、大金を持っていながら、一粒の米さえ買うことが出来ずに餓死に及んだのである。いくら金銭を持っていても、飢饉になれば人の心は無情ということなのであろうか。
 一方、よく知られるエピソードに作兵衛という農民の話がある。彼は飢饉によってほとんどの者が疲弊して倒れる中で、一人、麦畑の耕作に余念がなかった。しかし、飢えには勝てず、とうとう作兵衛も衰弱して倒れてしまい、まさに餓死寸前となった。隣に住む者が、貯えている一斗(約18リットル)の麦種を食べて命をつなぐべきだと言ったのだが、彼はこれを食べてしまうと、来年は田畑に植えるものがなくなってしまうと言い張って、その隣人の忠告を断り、とうとう麦種の袋を枕に餓死してしまったという。
 彼の自分の一命よりも多くの人々の命を救うことになる種を優先させた義農の精神は、その後、「勤労」ないし「忠君愛国」の鑑(かがみ)のように扱われ、明治時代には国の教科書にもなってもてはやされることになった。
 一方、前述の100両の餓死者の話は、いつなんどき、凶作が来るかも知れず、常日頃から農業をおろそかにしてはいけないという教訓に用いられることになった。
 しかし、これらの話が租税を納めることが本来の民百姓の職分であるとする領主や支配者層の考えに利用されたことも確かである。
作兵衛(1688~1732)の墓
義農神社(愛媛県)
 天明の飢饉(1781~89)は、有史以来の大量死を記録した悲惨な飢饉である。長期間にわたって全国で天候の不順や天変地異が続いた天明間は、天変地妖の時代とも言われ、人々の間ではこの世の終わりかと騒ぎ立てるほどだった。特に東北地方では、やませ(冷たい風)による冷害で壊滅的被害を受けおびただしい餓死者を出した。天明3年(1783年)には浅間山が大爆発を起こし、火砕流によって、ふもとにあった村を焼き尽くし多くの人々が犠牲になった。3か月間続いた噴火は大量の火山弾や火山灰を吹き上げ、東北地方の冷害に追い討ちをかけ大凶作に拍車をかけたのである。
 江戸でも大風のため大火災が続発し、特に丙午(ひのえうま)であった天明6年(1786年)には、3月には箱根山が噴火し地震が相次いだ。
 4月になると長雨と冷気によって稲作に悪影響を及ぼした。7月には大洪水が起こり家々を押し流し、あたり一面海のように変わり果てた。水害は、江戸だけでなく関八州に及ぶほどの広範で、あらゆる河川が氾濫したとある。
 この現象は全国的規模で起こり、各地の田作に大被害を与えたのであった。この年だけでの日本国中の米の収穫は、例年の3/1以下と言われ、米価が15倍にまで跳ね上がった。
大噴火する火山(イメージ)
 この飢饉の様子を記録した「後見草」(のちみぐさ)によると、津軽地方が特にひどく、日々に2千人前後の流民が発生し、他領に逃散していったが、そこでも一飯もない状態ですべて餓死に追い込まれた。ここでは、先に死んだ人間の屍体から肉を切り取って食べる者もあらわれ、人肉を犬の肉と称して売る者もいたという。
 おまけに、疫病がまん延して、田畑は荒れ果て原野のようになり、そこら中、腐乱した白骨死体が道ばたに積み上げられる惨状であった。
 この有り様を中世で限り無く続いた戦での死者と言えども、このたびの飢饉の餓死者に比べたら大海の一滴に過ぎないと評しているほどだ。
 ある説では200万以上の人間が、この飢饉によって餓死したとも述べられており、戦乱や他の自然災害を含めても、有史以来の未曾有の大量死であったと考えられている。
散らばる腐乱死体の群れ(イメージ)
 「天明卯辰簗」(てんめいうたてやな)という飢饉の様子を記録した書は、飢餓下における人間の身の毛もよだつ恐ろしい話を残している。
・・・この頃になると、人を殺して食うことも珍しくなくなった。村人の一人が墓を掘り起こして人肉を食べたのがきっかけで、ついには人肉を得るための殺人があちこちで起こっているのだ。ある一家が、人を殺して食べたという罪で処刑されたが、この家を捜索してみると恐怖の真実が明らかとなった。大量の骸骨が散らばり、桶には塩づけにした人肉が山盛り保存されていたのである。人肉は焼き肉や干物にもされていた。首だけでも38個も見つかったのだ・・・このような話が実話であると言うこと自体信じられないことだが、現世における餓鬼道の現出以外の何物でもないことは確かだ。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図を見るようで背筋が凍りつく思いである。
 天保の飢饉(1832~39)は、連年の凶作の結果、全国にその影響が及ぶほど凄まじいものであった。しかも、飢饉は7年間の長きに渡って延々と続いたのであった。鶏犬猫鼠の類まで、すべて食べ尽くし後には人を食っているという噂が広がっていった。人々の心は荒廃を極め、盗人は見つけられ次第、かます(むしろの袋)に入れられて川に沈めて殺された。
 この飢饉では、疫病も猛威をふるいおびただしい死者を出した。青腫(あおばれ)と言われる栄養失調の状態では、疫病が襲うとひとたまりもなく、例えば、秋田藩では、傷寒(発熱性の腸チフス)が流行り達者な者までかかり、多くの人々が病死した。
 しかもピークが田植え時と重なったことから、田畑は耕作されないままに荒れ放題になっていった。
 この頃、津軽では、食べるものがなく松の皮ばかりを食べ、一家心中や集団自殺といった悲劇が相次いだ。さらに、留まって餓死するよりはと、数万人の農民が乞食、非人化して山越えして逃げ出したとある。
人々の行き倒れを描いた絵
「奥の細道」の作者松尾芭蕉は、東北地方のある村で飢饉による恐ろしい光景を目の当たりにしている。
 ・・・事態は悪化の一途を辿り、冬になり朝晩の気温が低下すると、着の身着のまま路上で次々と死に始めた。そのほとんどが、栄養失調と疲労による凍死だった。夜が明けてみると、路上で生活している何人かが死んでいるのである。行き倒れとなった死体には、たちまち、鳥が舞い降りてきてついばみ始めた。
 ひっそりと静まり返った空き家をのぞいて見ると、そこには、とうに飢え死にしてミイラ状になった家族が抱きあったまま、あるいは壁にもたれたままの姿勢で横たわっているのであった。空腹に堪えきれず、路上でみさかいなく物乞いしていたお年寄りは、一夜明けると、物乞いする姿勢のまま息を引き取っていた。
 腹を減らしてどう猛になった野犬は、腐りかけた死体の手足を食いちぎり、市中を食わえたまま走り回った。通りは死体と食いちぎられた手足が散乱し背筋も凍るような光景が広がっていた。親を失って泣き叫びながら町中をさまよう幼児は、たちまち野犬に襲われて食い殺された。
 死体は、 最初、空き地に穴を掘って埋めたり、川に流したりしていたが、一日に何百人も死ぬようになってから、とても追いつかず、大きな穴を掘ってどんどん投げ込まれるようになった。川に流された死体は、水底で渦高く層をなして川をせき止めた。そのために、大雨が降るとたちまち土手が浸水して、そこら中、汚水で溢れかえることになった。村は、半分水没し、半分屍螻化した死体が、民家の軒下にまで流れ込んでくることもあった。
 荒れ放題の田畑や朽ち果てた空き家などに、累々と散らばる白骨死体の山を見るとき、そこには、現実世界の無常観しか見えてこない。
 この時、深刻な事態であるはずの秋田藩や八戸藩(はちのへはん)などが、どれほど窮民救済に本気で取り組んでいたのかは極めて疑わしい。
 八戸藩などは、1万8千両もの金をもって越後に米を買い付けに行ったが、その帰りに米の相場が高いと知ると、その一部を売却して藩の財政を肥やすことのみ熱心であったのである。
 「人の命は地球より重い」という言葉があるが、「人の命はチリよりも軽い」というのが悲しい真実のようである。
荒野に散らばる餓死した遺体の群れ(イメージ)
 このような凄惨な飢餓地獄は、ほぼ50年ほどの周期で繰り返し起きて来たのである。農業技術が進歩した江戸後期になって、飢饉による犠牲者がこれほど増加した理由として、中世は、下層農民は、すべて大農経営に組み込まれていたために、何とか飢えを凌いでいたのに対して、小農が個別に自立した江戸時代では、飢饉ともなると、抵抗力の弱さをさらけ出してしまい被害がここまで苛烈になってしまったと考えられている。

江戸時代が終わって、明治、昭和の時代になっても東北地方を中心に凶作が繰り返され、そのたびに飢饉は起き、人々に計り知れない不幸をもたらすのである。
 昭和9年の大冷害を発端とする凶作では、東北地方を中心に6万人以上の女性が身売りや出稼ぎに出なければならなかった。この年、3月に起きた函館の大火は、昭和に入って記録した大火災であり、5千人以上が死傷し、焼失した世帯2万2千という大惨事だった。この時、遊女として身を売って東京に来ていた25才のあさ子という女性は、この大火災で弟、妹の4人が焼け死んだと知るや、生きる望みを失って自殺したという。これも飢饉ゆえの隠された痛ましい悲劇の一こまに違いない。
 今日、我々は物が豊富にある中で生活をしている。しかし、いくら技術的物理的に進歩しようが、過去の人々の体験した苦労や悲惨な経験を踏まえなければ、今後の生きていく指標など見えてこない。飢饉のために、間引かれ、あるいは、野山に捨てられたり親に殺されたりした多くの幼児の霊は、今も常闇の空間をさまよっているに違いないのである。
 現実世界に生きる我々は、過去の人間の痛みや切実なる心を知ろうとする努力が必要である。その時こそ、自ずから謙虚さや物を大切にする気持ち、さらには、いたわりの精神の真の意味が理解されて来るのではないだろうか?



---Wiki

天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは、江戸時代中期の1782年天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本近世史上では最大の飢饉。



東北地方1770年代より悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、既に農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日1783年4月13日)には岩木山が、7月6日8月3日)には浅間山噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による冷害傾向をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年度から深刻な飢饉状態となった。さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策がとられていたこととも相まって、米価の上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定で約2万人)が餓死したと杉田玄白の著書『後見草』が伝えるが、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしていたため実数は1ケタ多い。弘前藩の例を取れば8万人とも13万人とも伝えられる死者を出しており、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓と共に疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減をまねいたとされる[1]
農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安の悪化が進行した。1787年(天明7年)5月には、江戸大坂で米屋への打ちこわしが起こり、その後全国各地へ打ちこわしが広がった。

異常気象の原因 [編集]

1783年6月3日、浅間山に先立ちアイスランドラキ火山(Lakagígar)が巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)、同じくアイスランドのグリームスヴォトン(Grímsvötn)火山もまた1783年から1785年にかけて噴火した。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起し、フランス革命の遠因となったといわれている。影響は日本にも及び、浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性がある。ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は10年程度続くと考えられる。
しかしながら異常気象による不作は1782年から続いており、1783年6月の浅間山とラキの噴火だけでは1783年の飢饉の原因を説明できていない。
大型のエルニーニョ1789年-1793年に発生し世界中の気象に影響を与え、天明の飢饉からの回復を妨げたと言われる。

史跡 [編集]

「餓死萬霊等供養塔(がしばんれいとうくようとう)」と「戒壇石(かいだんせき)」 当時の詳細を後世に伝える為に記した石碑(昭和63年1月16日青森県史跡指定) 西暦1785年(天明5年)青森県八戸市内の対泉院に建立された。
両碑の裏面には、天明の大飢饉に於ける当時の八戸領内の天候や作物の状況、食生活、餓死者や病死者の数、放火強盗といった治安悪化の様子、飢饉で得た教訓を後世に伝える内容が記されている。かつて人肉を食す様子を記した部分が存在したが、意図的に削られている。削られた時期は「当時の八戸領領主に対して配慮し、建立後間もなく」とも、「明治時代」とも言われているが、正確な時期は不明。

参考資料 [編集]

江戸時代の日本の人口 [編集]

(江戸幕府「人別調べ」、関山直太郎による)
  • 1774年(安永3) 2,599万
  • 1780年(安永9) 2,601万
  • 1786年(天明6) 2,509万
  • 1792年(寛政4) 2,489万
  • 1798年(寛政10)2,547万     

東北地方の人口 [編集]

  • 1750年(寛延3) 268万
  • 1786年(天明6) 237万
  • 1804年(文化1) 247万
  • 1828年(文政11)263万

八戸藩の収穫 [編集]

  • 1782年(天明2)7,243石(表高2万石)
  • 1783年(天明3)19,236石
  • 1784年(天明4)16,457石(耕作しない)

八戸藩の天気 1783年(天明3)8月 [編集]

  • 2日・朝のうち雨
  • 3日・夜中まで大雨
  • 4日・薄曇り
  • 5日・村雨
  • 6日・沖雲
  • 7日・曇り小雨
  • 8-14日・雨
  • 15日・曇り、大寒冷
  • 16日・雨
  • 17-19日・大雨
  • 20日・晴れ
  • 21-31日・雨

平成5年(1993年)作況:平年比 [編集]

  • 青森28、岩手30、宮城34、八戸農協0

平成5年(1993年)八戸の気象 [編集]

  • 6月 降水量 20mm、平均気温15.0℃、平均雲量8.2、日照時間179、全天日射量16.4(MJ/㎡)
  • 7月 降水量 102mm、平均気温16.5℃、平均雲量8.8、日照時間136、全天日射量13.4(MJ/㎡)
  • 8月 降水量50.5mm、平均気温17.0℃、平均雲量8.0、日照時間101、全天日射量15.2(MJ/㎡)
    • 2009年6月降水量165mm、平均気温16.6℃、日照時間146
    • 2009年7月降水量248mm、平均気温20.2℃、日照時間143
    • 2009年8月降水量115mm、平均気温21.0℃、日照時間107
    • 2010年6月降水量124mm、平均気温17.6℃、日照時間181
    • 2010年7月降水量131mm、平均気温22.6℃、日照時間114、

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