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2011年2月13日日曜日

ところで・・・

頓珍漢

珍竹林

これは、問題ないと思うが・・・


張作霖は何者だ、中国民に怒られるかも?



談合3兄弟@関東連合

頓珍漢




珍竹林




張作霖






---Wiki


張作霖
Zhang Zuolin2.jpg
青年期の張作霖
プロフィール
出生:1875年3月19日
光緒元年2月12日)
死去:1928年民国17年)6月4日
中華民国の旗 中華民国奉天省奉天市
出身地:China Qing Dynasty Flag 1889.svg 清国盛京将軍管轄区奉天府海城県
職業:軍人・政治家
各種表記
繁体字張作霖
簡体字张作霖
Zhāng Zuòlín
通用Zhāng Zuòlín
注音符号ㄓㄤ ㄗㄨㄛˋ ㄌ|ㄣˊ
注音二式Jhāng Tzuòlín
和名表記:ちょう さくりん
発音転記:ヂャン ズオリン
ラテン字Chang Tso-lin



馬賊の頭目 [編集]

遼東半島の付け根に位置する海城県で生まれる。生家はあまり豊かではない上に早くに父と死別、継父とは気が合わず、家を飛び出したと言われている。その後吉林省に渡り、馬賊に身を投じた。当時の東三省は警察力が弱く、非合法組織が数多く存在した。張はその中でたちまち頭目となり、朝鮮人参や、アヘンの密売で利益を得ていたと考えられる。彼の仲間には後に満州国の国務総理を務めた張景恵などがいた。

大日本帝国との関係の始まり [編集]

1904年日露戦争が勃発し、東三省は戦場となった。張はロシア側のスパイとして活動し、大日本帝国陸軍に捕縛されたが、張に見所を認めた陸軍参謀次長・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた。この時、児玉の指示を受けて張の助命を伝令したのが、後に首相として張と大きく関わることとなる田中義一(当時は少佐)である。その後は日本側のスパイとしてロシアの駐屯地に浸透し、多くの情報を伝えた。

清朝への「帰順」 [編集]

日露戦争後の1905年、東三省の統治体制を引き締める為に八旗兵の出身である趙爾巽が同地に派遣された。彼は行政手腕を以て知られ、財政収入の確保に奔走するとともに、地域の治安向上にも努め、馬賊に対しては帰順すれば軍隊に任用する旨を頭目たちに伝えた。張はこうした状況の変化にいち早く対応し、清朝に帰順して2千程度の規模を持つ軍の部隊長となった。この帰順は形式的なものであり、馬賊として広く知られていた張の下には更に多くの馬賊が集まり、隠然たる勢力を形成していった。

北洋軍閥との関係確立 [編集]

この時期の東三省は、中国各地からの漢族の大量移住とロシア・日本による介入のため急速に開発が進んでいた。清朝中央にあって北洋軍を率いる直隷総督北洋大臣袁世凱はこれに目を付け、自らの勢力下に置くことを企てた。袁は事実上の清朝の支配者である西太后に働きかけ、1907年には腹心の徐世昌東三省総督にすることに成功、更に配下である北洋軍の一部を東三省に送り込んだ。
張は内モンゴルとの境界に近い鄭家屯にあって、地域の安全確保に大きく貢献し、治安の確保に苦心していた徐世昌に認められた。これは張と北洋軍との関係を持ち、更に東三省駐留の北洋軍を吸収する手掛かりとなった。

軍閥として自立 [編集]

1911年10月に武昌起義が勃発。東三省でも革命勢力が蜂起したが、再び東三省を統治する任にあたっていた趙爾巽は軍事力を行使して鎮圧に成功した。張も兵を率いて多くの革命派を殺害した。翌年には清朝が滅び中華民国が成立したが、東三省においては趙爾巽がそのまま奉天都督となり、旧勢力は温存された。張も革命勢力を鎮圧した功績により中将陸軍師団長に昇進した。まもなく趙爾巽は満州族で清の遺臣という前歴から都督を辞任し、しばらくして袁の配下である段芝貴が東三省を総管する地位に就くが、他省出身であることから現地とのつながりは薄かった。一方、張は既に発言力を得つつあった在地勢力の利益代表として影響力を強め、東三省での権益拡大を目論む日本とも協力関係を取り付けた。この時期の張は表向きは袁に従っていたが、張の力を恐れた袁は彼を子爵に任じている。
1916年に袁が死去。これを好機と見た張は策略を用いて段を失脚させ、奉天省の支配権を獲得した。さらに勢力を広げ、1919年には黒竜江省・吉林省も含めた東三省全域を勢力圏に置き、「満洲の覇者」として君臨した。彼の率いる勢力は本拠地とした都市の名を採って奉天派と呼ばれ、張は「満洲王」と呼ばれるほどの威勢を誇った。

軍閥闘争 [編集]

その後東三省を足場に中国内地に勢力を伸ばし、安直戦争では直隷派に味方する形で介入した。両軍は安徽派の駆逐に成功するものの、日本を背後に持つ張作霖率いる奉天派と、英米を背景に持つ呉佩孚ら直隷派は仲違いし、奉直戦争では泥沼の戦いを繰り広げた。結局、張が勝利して北京を占拠するが、国共合作を成し遂げた国民革命軍が「北伐」と称して華北への侵攻を開始した。慌てた張は再び直隷派と共同して国民軍と戦った。この戦いでは蒋介石率いる北伐軍は敗北し撤退したが、直隷派は壊滅し、張の奉天派だけが残された。

共産主義者との対決 [編集]

国民革命軍の背後で暗躍するソ連を嫌った欧米勢力は国民革命軍を支持せず、張に好意的な姿勢を取った。張も日本よりも欧米勢力に追随する風を見せた。張は1926年12月、北京で大元帥に就任し、自らが中華民国の主権者であることを宣言した。

張による北京のソ連大使館捜索 [編集]

1927年3月に起こった南京事件の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に中国共産党とソ連の策動があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。その結果、同年4月6日、北京のソ連大使館官舎を奉天軍が家宅捜索し、ロシア人・中国人80名以上を検挙、武器及び宣伝ビラ多数などを押収した。これは奉天にも国民党軍からの共産主義者が浸透し、それによる満洲の共産化運動を防ぐための処置でもあった[1]。張がソ連大使館官舎を家宅捜索したことについては日本を含む列強各国から事前に国際法上の問題がないことの承認を得ていた[2]。また南京事件は共産主義者が起こしたとされ[3]、各国の共産主義に対する警戒心は高まっていた。

ソ連大使館捜索の影響 [編集]

4月10日、ソ連大使が本国に召還されソ連と中国の国交は断絶した。一方、ソ連は張に圧力をかけるためにモンゴルに大砲、弾薬、毒ガス、航空機を集中させている[4]。北京のソ連大使館捜索によって捕らえられた共産党員は軍法会議にかけられ、北京大学教授李大釗らは処刑された。ソ連大使館で押収された書類には北京において工作活動、あるいは暴力に訴えるための4120名に及ぶ宣伝部員等の名簿やイギリスフランス、日本に対する反抗的策動を目的とする委員会の調印文書など共産化の陰謀を示すものがあり、その内容はイギリス下院においてもチェンバレン外相から発表され[5]、さらにイギリス国内ではアルコス事件が起き、イギリスとソ連との国交は5月27日[6]断絶している。
張のソ連大使館捜索に続き、4月12日には蒋介石上海クーデターを起こし共産主義者への弾圧を開始した。

孤立化と敗北 [編集]

1928年4月、蒋介石は改めて国民革命軍を改編し、欧米の支持を得て再び北伐を開始した。この時は他の軍閥勢力である馮玉祥閻錫山なども自らの勢力下に加え、万全な態勢を取っていた。張は防戦するが、欧米からの支持を失った。日本政府も張を扱いかねており、山東出兵(第2次)によって済南で蒋介石軍と衝突するものの(済南事件)、蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、張を積極的には支持しなくなった。同年6月4日国民革命軍との戦争に敗れた張はついに北京を脱出した。
当時の日本の首相・田中義一はなおも張の利用価値を認め、東三省で再起させることを考えていたが、既に満州国の建国計画を進めていた関東軍は張の東三省復帰を望まなかった。

最期 [編集]

爆破された車両
詳細は「張作霖爆殺事件」を参照
張は自らの根拠地である奉天へ向かったが、関東軍の参謀・河本大作大佐の策略で、奉天近くの皇姑站で乗っていた列車を爆破された。張は爆発で重体となり、自動車で私邸に担ぎ込まれたが、まもなく死亡した。
張作霖爆殺事件は当初から関東軍の犯行であるとの説が有力であり、第二次世界大戦終結後に明らかにされたいくつもの証拠により現在では定説となっている[7]小川平吉鉄道大臣が事件の後始末にあたり、外務省陸軍省関東庁の「特別調査委員会」によって事件の概要が判明し、また現地に派遣された峯憲兵司令官の調査により、事件が河本大作大佐の指揮により行われたことが判明。日本政府は事件を曖昧にしたものの、昭和天皇の不快を蒙った田中は総理大臣を辞職した。
なお、小川自身、河本から直接「事件」についての告白を聞いている(小川平吉関係文書)。

その後の東三省 [編集]

張の支配地域は長男・張学良が継承した。彼は国民政府と結び、さらにアメリカなどと共同して満鉄の利権回復に乗り出した。また父から引き継いだ幕僚のうち、日本と近い関係にある楊宇霆らを粛清した。
1931年満州事変が勃発、日本軍は東三省全土を制圧し張学良を同地から追放した。張学良に粛清されなかった軍人や現地有力者出身の幕僚層の多く(例えば于沖漢・張景恵)は日本の利権と結びつきを持っており、引き続き日本に従い、翌年の満洲国成立後は要職に就任することとなった。根拠地を失った張学良は国民党政府に庇護を求めた。

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