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2011年2月12日土曜日

南米は?

社会主義革命@第二のキューバ革命



1/26/2011

ボコタ革命@ふたりの市長

驚いた~~~

日本のマスメディアへ

今頃、放送?

印象深かったのは?

チェ・ゲバラ

そして、チャベス

南米の光は、アメリカの影を打ち破ったトキ、出現した・・・

サルトルが20世紀を代表する人物として称賛した



チェ・ゲバラは医師だった・・・





http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2010/03/post-66a1.html


NHK、BS世界のドキュメンタリーで、シリーズ爆走都市の2回目で2010年3月23日放送された、コロンビア ボゴタを見ました。コロンビアというと、南米の国で、私の好きなコーヒー、コロンビアの生産国、そしてむかし、大久保で街娼がたくさんたっていた時、髪を金髪にしているけれども、背が低い女性たちを思い出します。コロンビアは南アメリカの北西部にあり、ブラジル、ベネズエラなどに接しています。ラテンアメリカでは人口が、ブラジル、メキシコに次いで多い国です。前にあげたコーヒーの生産が有名ですが、麻薬のコカインの生産も多く、反政府ゲリラの活動も強いところです。ボゴタは人口770万人、コロンビアの首都でアンデス山脈の2640mの盆地にあります。ちなみに、コロンビアの名はアメリカ大陸を発見したコロンブスから来ています。
 ここで取り上げられた、二人のボコダ市長が思い切った改革をするまでは、高級住宅街とスラム街が隣り合わせに併存し、暴力と犯罪が横行する世界一危険な都市と言われました。このままではいけないと思った、大学の学長で哲学者のアンタナス・モックス氏が1994年市長選に無党派で立候補し、見事当選しました。モックス氏は、まず、市役所や警察官などで汚職をした人たちを思い切って追放し、まじめで有能な職員に変えました。また市を変えるには、交通ルールを守らないとか、人々のモラルに対する意識を変えなければいけないといって、道路にピエロの恰好をした人たちを送り、マナーを守った人には、白いカードを、守らなかった人には赤い(レッド)カードを渡しました。そのような意表を突くいろいろな方法でモラルの向上を誠実にして愚直に訴え続けました。その結果市民の意識も少しづつ変わってきました。モックス氏はひげを生やした、ごく普通の哲学者がそのまま政治家になった感じで、そのスタイルは市長になっても変わりませんでした。市民の目から、アドバイスしてくれる母親の意見もいろいろとりあげて行きました。ちなみに、モックス氏は、リトアニア系の移民の子孫です。
 当時のボゴタ市では銃で殺される人が、大変多かったのです。1990年前半、人口10万人当たりの犯罪による死者の数は世界最悪でした。モックス氏は夜一時以後のレストランなどの営業禁止、家庭内暴力をなくそうという運動、市民の持っている武器を回収する運動などを行いました。大きな抵抗もありましたが、それらを実行し、その結果、犯罪での死者が劇的に減少しました。人々ははじめは疑問に思っていましたが次々と成果を上げる市長を支持しました。人々から資金を集め公共事業に投資しました。治安が安定した、ボゴタには外資も次々に投資を始めるようになりました。
 1997年、コロンビアでは市長の再任はできないことになっているので、モックス氏のあとにやはり無所属のエンリケ、ペニャロサ氏が市長となりました。ペニャロサ氏はスタッフには多くの有能な民間人を登用しました。そして安定した市の状況を背景として思い切った、都市改革を始めました。町の中心にあった、犯罪の温床で会ったスラム街を取り壊し、公園に変えました。貧しい人のために、安い公営アパートを作りました。道路を整備し公共の交通機関、新交通システムであるトランスミレニオを作りました。専用レーンで、安く早く人々を運べます。また、自転車専用道路を作りました。そして多くの人が自転車を使うようになりました。市の中にあった豪華のゴルフ場を素敵な公園にし、そのほかにも1000か所の公園を造りました。また素晴らしい大きな図書館を作り、市民がみんな利用しやすいようにしました。これらの政策により町は劇的に素晴らしい都市に生まれ変わりました。これらの公共事業で多くの雇用が生じて、人々の所得も向上したことでしょう。
 二人の市長が行った、6年間の政治により、犯罪は劇的に減少し、所得階層の差が減少し、素晴らしい機能的な都市に変わりました。ペニャロサ市長は3年の任期を終えて再選できないので、再び、モックス氏が市長となりました。これを見ても、一般庶民のための政治をすることがいかに大事であるかがわかります。それに引き換え日本の政治状況は、まだまだ、民衆のための政治になっていません。民主党になってもあまり変化せず、人々は失望しています。残念なことです。その後モックスはじめその流れによる3人の元市長は、緑の党を作り早速5議席を獲得し、大統領候補にも挙がっています。この、ボゴタの市長に比べて、日本の石原都知事が、市民の暮らしを良くするのではなく、自分の名誉を高めるために、ファーストクラスで夫婦で外国に行き、超豪華なホテルに泊まったりするなど、オリンピックの招致に多大なお金をかけて来たのは嘆かわしい限りです。
 

---Wiki

エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナErnesto Rafael Guevara de la Serna1928年6月14日 - 1967年10月9日は、アルゼンチン生まれの革命家で、キューバゲリラ指導者。スク系/アイルランド系アルゼンチン人アルゼンチン系キューバ人。
チェ・ゲバラ」の呼び名で知られるが、「チェ」は本来アルゼンチンのスペイン語リオプラテンセ・スペイン語はじめとする諸方言)で「やぁ」という砕けた挨拶。ゲバラが初対面の相手にしばしば「やぁ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していた事から、キューバ人達が「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名である。ラテンアメリカでは通常「チェ」もしくは「エル・チェ(El Che、「el」は英語の「the」に相当する定冠詞英語に訳すなら「the Hi」となる)と呼び、「チェ・ゲバラ」と呼ぶことは少ない。

日本来訪 [編集]

1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの使節団を引き連れて日本に訪れた。当時の日本での知名度は低く、朝日新聞が“カストロ・ヒゲ[1]”と揶揄同然に報じたのみで、他社には無視された。7月23日には午前中に愛知県トヨタ自動車工場のトラックやープ型4輪駆動車の製造ラインを見学、午後には新三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。24日には久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、丸紅鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席した。この他にもゲバラは通商のために東京都内の帝国ホテル池田勇人通産相に15分間の会談を行い、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。
7月24日の大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くない事を知り、翌日、神戸の川崎造船所を視察した後に、予定を変更してオマール・フェルナンデス大尉とマリオ・アルスガライ駐日大使を伴って全日空機で岩国空港に飛んだ。広島県庁職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館原爆病院を訪れている。娘のアレイダ・ゲバラも2008年5月に原爆死没者慰霊碑に訪れている[2]
なお、このゲバラの広島行に関しては、「市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、宿を密かに抜け出して夜行列車で広島に向かった」という説もある。しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはなく、当時の通訳であった広島県外事課の見口健蔵が、飛行機での公式の来訪を語っているほか、昭和47年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っている。
日本語がまったくわからない3人がこっそり抜け出して夜行列車に乗ることの不自然さ、無断で抜け出した場合の日本側の反応についての言及がないこと、カストロが一時的に首相を辞職するといったキューバ本国の政治的混乱の中で、使節団代表であるゲバラが、受け入れ国である日本政府や商工団体に対してそのような配慮に欠ける行動をとるとは思えない点、また、なによりもこっそり夜行列車で抜け出したにもかかわらず、広島で県庁職員が待っているのは不自然でもあり、フェルナンデスの記憶違いもしくは脚色である可能性が高い[3]
このとき、中国新聞の記者であった林立雄が単独取材した。「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」とゲバラは言ったという。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、キューバでは現在でも、初等教育で広島と長崎への原爆投下をとりあげている。
日本各地を視察した後、27日に日本を発ってインドネシアパキスタンスーダンユーゴスラビアガーナモロッコを歴訪して9月8日にハバナへ戻った。翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。


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